黒棒の歴史
「黒棒」は福岡県は「筑後(ちくご)地方」で昔から食べられてきました。筑後地方は、福岡県南部に位置し、その中心にある「筑後平野」には二つの一級河川「筑後川」「矢部川」がとうとうと流れております。古来より、この二つの河川は筑後平野へ豊饒な大地をもたらしてきました。この豊穣な大地「筑後平野」は、穀倉地帯として、夏は「米」、冬は「麦」の二毛作が行われ、そこへ暮らす人々の食生活を満たしてきました。筑後平野東部・八女地域には、矢部川の水流を引き込み、水車を使って麦を挽く製粉所も多くあり、小麦粉が豊富にありました。その一方で、筑後地方では自家用のサトウキビ栽培も盛んに行われており、サトウキビや黒砂糖は地域の身近な食材でした。
この二つを主原料とする「黒棒」は明治後期には家庭用のおやつのとして存在し、大正期には八女地域を中心に筑後地方全域で「黒棒」を製造する製菓所が多くあったようです。当時、多くの製菓所は地域の人々に直接「黒棒」を提供していたそうですが、時代が進むにつれ、リヤカーを引いて行商する方々に扱われるようになり、九州各地に定着していったようです。現在残っている「黒棒」の製菓会社のほとんどが創業90年から100年を謳っているのはこの歴史のためでしょう。
そして現在、「黒棒」は流通の発達により、北は北海道から南は沖縄まで全国で食べられています。